【連載/教員対談】臨床哲学をあらためて問う(1)
はじめに
1995年に倫理学研究者を中心に「臨床哲学」が提唱され、1998年には大阪大学大学院に「臨床哲学」が誕生しました。それから20年以上が経過し、激動の大学改革のなかで、研究分野としての「臨床哲学」のミッションがあらためて問われる時期にきています。これに関連して、これから数回に渡って教員による対談を発信していきます。
第1回 臨床哲学研究室教員対談(2019年8月29日(木)堀江研究室にて
対談者:堀江 剛・小西真理子
聞き手・編集:ほんま なほ
ほんま:わたしは1998年から2013年まで、専任教員として臨床哲学の活動に参与し、その後は兼任の立場でサポートしてきました。専任教員のお二人にお話をうかがうまえに、まず、臨床哲学をめぐるこれまでの経緯について、簡単に整理させていただきます。
あまり知られていないかもしれませんが、臨床哲学が生まれた背景のひとつとして、かつて教授であった鷲田清一さん、中岡成文さんのお二人は、早くから大学院修了者のあたらしい働き方について考える必要がある、という認識をもっておられました。「臨床哲学士」の資格化というものも議論されていました。文部科学省も、いまさらながら、博士号保持者の社会での活躍を訴えていますが、当時としては、これは先見の明のある動きだったというべきでしょう。わたしの記憶違いでなければ、お二人は職のない若手哲学研究者の大量流出を早くから懸念され、1.医療・看護分野と協働する、生命倫理にかわる哲学者の仕事をみつけること、2.欧米・イスラエルなどでの哲学カウンセリングの動向をみならった、新しい哲学者の働きかたを探ること、の二つを検討されていました。
その後、生命・応用倫理学については、他分野と競合するかたちで「研究者市場」が開拓されつつありますが、かねてから専門主義の問題点を強調してきた鷲田さんらの「臨床哲学」はこれに沿うものではありませんでした。また、お二人は哲学・倫理学だけでなく、人文学そのものの臨床的転回についてもさまざまに尽力されましたが、相変わらず、文学研究科での主流の研究は守旧化の傾向から抜け出せません。さらにこの20年間で、大学院教育ではより高度な専門性の育成と国際的競争力を求める圧力が強くなっています。研究を重視するにせよ、社会的実践を重視するにせよ、臨床哲学はミッションを新たにし、こうした状況に応えていく必要があるでしょう。これから数回にわたって、堀江さん、小西さんにお考えをきき、臨床哲学について再考し、それを発信する機会を設けたいと思います。
書き手の生に密着した研究
ほんま:小西さんは昨年度着任されたばかりですが、臨床哲学研究室にはどのような特徴や可能性があると感じていますか。
小西:私が今までしてきた研究には、その動機や前提として、誰かと話したり、興味がある場所に行ったりしたときに気づいたことや疑問に思ったことなどがあります。しかし、研究教育や議論の場において、あえてその部分が問われることはあまりありません。むしろ、それを押し出してしまうと、相当の技術がないとわけの分からないものになってしまうから、そこは封印したほうがいいなと考えてきました。でも、臨床哲学研究室は、私が封印したものに語りかけてきます。臨床哲学は、各々がもっている問いの前提となるものを問うたり、語ったり、考えたりすることを重要だと考えている、すごく貴重な場所だと思います。何か問題を考えているんだったら、どうしてこんな問題を考えているのか、そこに立ち戻りながら、自分の見つけた問題やテーマなどと向き合うことはとても大切なことだと思います。
ほんま:例えば20年前の議論では、哲学者や倫理学者はむしろ研究室から外に出るべきではなくて、徹底して資料とか書かれたものに定位して考えるべきだという意見がありました。もし学部生や院生が何かを考えたいと言ったとき、どんな風に指導されますか。
小西:私が求めるのは、資料や文献が原点となるような研究とは異なるものです。資料や文献にあたるまえに、経験を蓄積する時期のようなものがあると私は思います。その時期に日常的に人と関わったり、「現場」と言われるような場所に触れてみたりすることで問いや気づきが生まれてきます。そういう意味では臨床哲学研究室も私にとってはまさに「現場」です。さまざまな場所でのさまざまな経験をつうじて得ることのできる知見をもって、文献や資料にあたるのがよいと私は考えます。だから、問いや気づきのはじまりと向き合いながら、話し合ったり、資料や文献と格闘したりすることで問いに応えていく道筋を示すような教育ができればいいなと思います。さらに言えば、学生さんはこれまで生きてきた蓄積をすでにもって研究室にやってこられると思うので、そこに存在する問いが言語化できない場合にも、そこをいっしょに考えていければいいなと思います。
ほんま:文献との関わり方について、もう少しお聞きしていいですか?
小西:私は文献研究者のなかにも、文献や資料にあたるまえに何かについて違和感をもったり、憤りを感じたり、苦しみを感じたりして、そこからはじめている人は相当数いると思います。ただ、文献からはじめて文献のなかでとどまってしまうと、それが悪いとは言いきれないけれど、書き手の生と密着したようなものではないという意味で、私が求めるものではないなと思います。学生さんといっしょに考えたいのは、その人が今まで生きてきて、どういうことに疑問を感じたかとか、今どういうことが気になっているかというようなことを大切にしながら、その先で文献と相補的に考えていけるようなものです。
ほんま:それは小西さんご自身がこれまでたどってこられた道なのでしょうか。
小西:そうだと思います。そして、私が惹かれる傾向にある他の人の研究が、その人の生や思考に関わっていると感じられるようなものです。ただ、私自身に関して言えば、今は新しい経験の蓄積の時期だと思っています。今、現場での調査や当事者の方への聞き取りを行っているようなものや、新しく知ったものなどに関しては、すぐに形するっていうのは、なんか違うなって思っています。経験が蓄積されて、自分のなかに何か生まれるまで熟さないと、形にはなりません。研究として成立させるために文献にあたるのは、その後です。だから、新しいものに関わってそれが形になるっていうのは、すごく時間のかかることだと思います。
ほんま:すごく時間のかかることをやれる場である、ということですね。
小西:はい。調査や聞き取りは他の分野でもされているし、それも時間のかかることだと思います。しかし、それを哲学でやるということは、調査や聞き取りというものが何を意味するのか、そもそもそれは適切なことなのか、そこにどんな倫理的な問題が生じているのかなどがどの分野にも増して問われることだと思います。さらに、臨床哲学的な調査や聞き取りとなると、ひとつひとつのケースにおいて、そのつどそこに生じる関係性のなかで作り上げていくという特徴が顕著になってくるでしょう。だから、緩やかなものだとしても調査の方法論をもっている分野に比べると、さらに時間がかかるような気がします。しかし、時には行先が見えなかったり、足踏みしているように見えたりするけれど、そういったものに粘り強く同行しようとする文化が臨床哲学にはあると思います。
文献研究と臨床現場を結びつける
ほんま:堀江さんは臨床哲学にどのように取り組まれてこられましたか。
堀江:僕の場合、近代哲学の研究をやろうと思って、会社も辞めてそこに専念したっていうのがあります。しかし、同時に社会のなかで生きている自分っていうのもあるわけだから、それと哲学文献のつながりや、これをどうやって自分の生き方に生かせるかということを常に考えています。僕は誰でも哲学書に接すれば、そうなるだろうと思って、自分もその一人だと思って哲学の勉強をしてきました。臨床哲学研究室に院生として入って目が開かれたのは、自分個人の問題としてではなくて、医療者とか企業の経営者とか、いろんな職業をしている人と話すことで、自分自身が「これが哲学だ」と文献のなかで見つけてきたことと、実際の社会のなかでいろいろ考えている人たちとどこか接点や共通点をみつけたりできるのではないかと予感したことです。ある社会やある出来事を深く批判的に捉える視点と、実際に社会のなかで職業として活躍している人の視点とで、医療の現場の問題をどんなふうにいっしょに考えられるかっていうのを僕はやってきました。ソクラティク・ダイアローグもそうなんですが、今日でもそれをやっています。あるいは、いくつかの理論的な研究と臨床現場をつなぐような研究、例えば組織の研究をやっているというのが今の認識です。
ほんま:教育についてはいかがですか。やはり堀江さんと同じ道を勧められますか?
堀江:学生に対しては、時間がかかるかもしれないけれど、とりあえず文献研究から入ってもいいのではないかと思っています。文献研究一辺倒っていうけれど、大学生や修士の社会経験がない学生は、まずはそれでもいいんじゃないでしょうか。もうちょっとしたら、それを社会のなかでどう生かすかとかということを考え出すんじゃないでしょうか。だから、臨床哲学のなかに文献研究だけをやっていますという人がいてもいいんじゃないかと思っています。
ほんま:堀江さんのいう文献研究とは、哲学者の古典から、現代の倫理問題を扱ったものまで幅広いものをあつかう、ということですね。それだけでも時間と労力が必要だし、健康と経済力とチャンスに恵まれないと続けられませんよね。大学院5年間は短いと思うのですが。
堀江:どっちから入るかだと思います。文学研究科という場所として、文献から入るか自らの経験から入るか、両方開いておく必要があるんじゃないかなと思います。臨床哲学研究室ではその両方の人がいて、互いに交流・刺激し合えることができるような環境が重要だと考えています。教員としては、どうやってそうした環境を整えていくかが課題となってくると思います。大学院で学ぶ時間は、確かに限られています。しかし、その中で文献研究と自分の経験や問題とを結びつけるための視点、少なくともそうしたもののヒントが見つかればいいのではないかと思います。
ほんま:文献研究か否か、という二者択一ではなく、読み方や文献以外のものとの結び付け方が問題になる、ということですね。しかし阪大の他の研究室でも、他の大学でも、文献研究をメインにして、現代的な問題を論じるいう人は決して少なくありません。だとすると、臨床哲学でしかできないことを示してく必要もあります。引き続き、お二人にお話を伺っていきたいと思います。
(つづく)