【連載/教員対談】臨床哲学をあらためて問う(2)

はじめに

1995年に倫理学研究者を中心に「臨床哲学」が提唱され、1998年には大阪大学大学院に「臨床哲学」が誕生しました。それから20年以上が経過し、激動の大学改革のなかで、研究分野としての「臨床哲学」のミッションがあらためて問われる時期にきています。これに関連して、これから数回に渡って教員による対談を発信していきます。

第2回 臨床哲学研究室教員対談(2019年9月26日(木)堀江研究室にて)

対談者:堀江 剛・小西真理子
聞き手・編集:ほんま なほ

規範を外れる生と向きあう

ほんま:臨床哲学をめぐる対談シリーズの第二回目ということで、引き続き、堀江さんと小西さんにお話を伺いたいと思います。前回は、研究と現場をどう結び付けるかというところのお話を聞きましたが、今回は具体的にどのように現場に関わって、どんなことを見てどんなことを考えたかということを話してもらえますか。小西さんは夏休みにドイツのベルリンに行かれたのですよね。

小西:はい、私がベルリンに行ったのは、BDSMの調査をするためでした。私が研究する共依存の問題を考えるにあたって、支配と服従にかんして「別の語り」を提示するBDSMは避けることのできないテーマです。今回はベルリンでBDSM研究をしている友人の日本帰国が迫っていたこともあり、ベルリンで本格的な調査ができるのはこの機会しかないと思って行ってきました。

※BDSM: B&D(Bondage & Discipline:拘束と調教)、D&S(Domination & Submission:支配と服従)、S&M(Sadism & Masochism:加虐症と被虐症)との複合語

ほんま: 共依存研究がBDSMとどのようにつながっているのですか。

小西:共依存が語られるとき、避けて通れないのが支配や暴力をめぐる問題です。支配や暴力にかんしては、「こういう暴力は正しい暴力だ」ということはほとんど語られないと思います。しかし、BDSMの現場を訪れると、いかに暴力的・支配的な状況を生み出すか、他者を無力(helpless)な状態にするかということに価値が見出されていることが分かります。その価値を徹底的に追及することによって具現化された光景が、私の目の前に広がっていました。

ほんま:おっしゃっているのは、たとえば暴力はいけないとか、支配がとにかく悪だっていう規範があるけれど、その現場では、支配や暴力というものが、おそらくそういうふうに語られる枠組みとは全然違う仕方でなされている実践があって、そこに何か研究のヒントがあるのではないかということでしょうか。

小西:私も暴力や支配って聞くと、即座に拒否反応が出る傾向にあります。でも、BDSMについて語る友人の話を聴いていると、そこにいる人たちが、私が見えているのものとは全然違う世界に生きていることが徐々に伝わってくるようになったんです。加えて、共依存の問題でも、BDSMとつながっているとしか思えないような事態があって、共依存を論じるにあたってBDSMがないもののように語るのは大変不誠実だと考えるようにもなりました。

ほんま:このテーマにかんしてはこれから切り開いていかれるということだと思いますが、それは本を読んで考えるだけでは難しいんでしょうか。

小西:今回、ベルリンで調査する直前にも、BDSMに関する論文をいくつか読んだんですけれど、調査直後に同じ論文をもう一度読むと、そこから見えてくるものというか、伝わってくるものの臨場感がまったく異なるものになっていました。いろんな人が話していたことや、現場で見たことと文章がリンクするし、場合によっては両者の差異も明らかになります。今回お話しをうかがったSMスタジオの女王様は、SMを知って、それをとことん追求できる場所を作るという夢をもって、看護師という職から転職してまで夢を実現した方でした。創設者の一人の方とスタジオをめぐることで、こういう考えを持った人が作り上げた場所がこういう場所なんだっていうこともすごく伝わってきました。その場所は、彼女たちの思想が体現されている場所だったんです。

ほんま:小西さんが考えているのは、世の中で浸透している慣習的な倫理だけではなく、それから逸れている人たちのなかにもある種の倫理があるということだと思いますが、両者の関係はどうなっていますか。

小西:両者は違うものだと思いますが、一部重なっていますね。たとえばBDSMにおいて、慣習的な世界では暴力や支配はダメ、BDSMの世界ではそれが肯定的に捉えられるという点においては違います。しかし、BDSMの世界では、プレイする上での合意形成がとても重要なものであると語られます。場合によっては危険をともなうようなものもあって、それをいかに技術や感性、環境を整備することで安全に行うかということが詳細に検討されています。あと、否定語が言葉通りの意味をなさないので、危険や嫌悪を感じたときにプレイを中断するためのセイフワードがもうけられています。これらの試みにはかなり「正常」な規範が働いていると思います。でも、BDSM実践者のなかには、そういうものにおさまらない人たちもいて、そういう人たちは、実践者のなかでもより「異常」な領域を形成していくわけです。今回私がおとずれたスタジオは、すごく暴力的で支配的な場所だったけれど、そういった意味では「正常」さを体現した場所でもありました。

ほんま:意地悪な質問をすると、単にSMおもしろそうとかいう興味本位で研究者が出かけることと、そうではない研究とどう違うと思いますか。

小西:そこはすごく難しいところです。私みたいなSMクラブで働いた経験があるわけでもない人が突然訪れることを嫌がる人は多いと思います。実際に、博士論文を書いていた2013年にはこのテーマに興味を持っていたけれど、当時その場所に研究者として行くことにはとても抵抗がありました。そこから数年が経過して、問題について考えるなかで、一般的なSMに対する偏見というものがよく分からなくなってきたと感じるようになったとき、条件付きにはなるけれど、現場を訪ねてもいいかなと思うようになりました。ただ、これはすごく私の主観に依拠することなので難しいですね。今回は実践者の方や現場とのつながりをすでにもっている友人に同行してもらっていたことがとても大きかったです。インタビューするにあたっては自分の立場は明確に相手に伝えるべきだし、インタビュー最中に不快感をもたれていないかということは常に気を配らないといけないし、自分がそこにお邪魔させてもらっているという意識を手放してはいけないし、インタビュー前やインタビューの短時間において少しでも関係性を形成するということをすごく意識します。でも、それは最低限のことのように思います。

ほんま:臨床というと「苦しみの場所」とどうかかわるかというようなことが議論されてきたわけです。でも、今までの話を聞いていると、そういうお助けイメージではなくて、ひとつは「このことを考えざるを得なくなった」みたいな思考の必然みたいなものがあるということ、もうひとつは、別にSM愛好者を評価してあげたいとか、この人たちを社会から排除するものをなんとかしようとか、そういうところが動機になっていないところがおもしろいなと思いました。それをあえて臨床というものと結びつけるとしたら、それはどういうアプローチなんでしょうか。

小西:かわいそうな人を私が助けてあげるみたいな動機に対しては、できるだけ距離を置きたいと思っているんですけれど、人を助けたいっていう気持ちがまったくないわけではなくて、むしろ強くなるようなこともあります。それはきっと「こういう生き方ってないよね」みたいな発言を聞いたときにそういう気持ちになるんだと思います。規範と外れる生というものがあるとしたら、そこにはそこの規範や倫理があるのに、それを抹殺しようとしたり、攻撃したりするような言動に対しては、何かしたいという気持ちになります。

病院での看護を通して仕事を考える

ほんま:続いて堀江さんにお伺いしたいのですが、堀江さんにとって臨床的な場所ってどういうところですか。

堀江:これも偶然からですけれど、医療関係の特に病院という場所で仕事をしている様々な人と議論したり、一緒に考えたりする機会が多かったので、臨床といえば、いわゆる医療の現場が想定されています。でも、お医者さんとはあまり付き合いがなくて、看護師さんが多いです。病院の中のいろんな問題を考えるっていうのが、さしあたって僕にとっての「臨床」です。ただし、ここで僕自身が大学院生になる前にサラリーマンを経験したというのが大きくて、どこかの組織で仕事をしているということを「臨床」だと受け取っているのだと思います。

ほんま:それがたまたま看護職だったということですか。

堀江:そうです。臨床哲学研究室に私が大学院生として入ったときに、本当にたまたま看護師さんが多くて、そういう人たちと話し合う、聴く、自分の考えを述べるということを繰り返したなかで、考えることが多かったということです。私は「仕事」という視点で、看護師の人たちが考えていることに反応して刺激を受けているのだと思います。たとえば、ある看護師さんが日々の病棟の看護で何を考えてやっているかという話になったとき、基本的にはいかに時間を管理して多くの患者さんへのケアや、その他にもやらなければならないことをやっているのか、どうやって上手く患者さんとの話をきり上げて次の仕事にいくかっていうのを考えながら仕事しています。これは看護の仕事という意味で、病院でたくさんの人をケアしているなかで、もっとも重要な発想なんだろうなと思いました。同時にだからといって、その看護師さんはすごくドライに患者さんを処理するように対応しているわけではなく、自分のモチベーションや自分の看護観っていうものを、日々の仕事の中でやっていきたいという価値観も持っています。それを実際とどう折り合いをつけて自分で組み立てているのかということ、この全体が看護という仕事なんだなと思いました。そこをいっしょに考えて、こんなふうにも考えることができるんじゃないかとか、こういう視点で見たら看護の仕事として哲学とつながるんじゃないのか、といった話ができるように思えて、楽しかったですね。

ほんま:それは看護研究だったら論文とかに結実するんですけれど、堀江さんのそういう関わりっていうものは誰にどういうものを与えるんですか。

堀江:単純なことは言えないんですが、多面的にはいろんなことができると感じます。ひとつは、その看護師さんたちといっしょに論文や実践報告を書いて研究成果として発表することができると思います。でも、それだけではなくて、実際に研修に僕が関わってお互いにアイディアを出し合う場を作ったことによって、少なくてもこれまでの看護の研修とか、何かスキルを磨くだけのものとは違う視点を得たという感想を聞くと嬉しいなと思います。その他には、患者さんやその家族も含めて、お互いに違う人たちをまぜて対話する場所を私が研究者として作ると、それぞれの立場からの新しい視点やヒントが見つかるというのがあります。

ほんま:私も精神科看護やがんの緩和ケアとかに関わっていて、私の場合は、どちらかというと患者さんと間接的に関わっているような感じがします。でも、堀江さんの話を聞いていると全然そうじゃなくって、病気とかではなくて看護師の働きというところに関与しようとしているところがおもしろかったんですけれど、それってどういう関心なんですか。患者さんが誰かということとは独立して、病院の働きというところを見ているんですか。

堀江:やはりサラリーマンの経験が大きいですね。大学を卒業して「仕事をする」ってどういうことなんだろうっていうのがあって、メーカーに入って働いたということが、僕の臨床哲学の原体験なのかもしれないです。僕自身はそれをサラリーマンやりながらはできませんでした。だから、臨床哲学に入って仕事の臨床っていうのをずっと考えていたんだと思います。

ほんま:堀江さんはもともとスピノザをやっていたわけですよね。今の話を聞いていても、全然善悪とは関係ないっていうところがおもしろいなって思いました。善悪とは関係ない、仕事という現場での人のやりくりしている生きざまに関心をもたれていると思うんですけど、善悪がないっていうことをポジティブに言いかえるとしたらそれはどういうふうになりますか。

堀江:僕が倫理学を考えるうえで、自分のなかでこれかなって思うのは、善悪は別にしてやらなければならないことがある、ということです。善悪は別にして、例えばマルクスが考えるように、こんな経済的な必然性が社会のなかには貫徹しているんだとか。要するに、現実的な社会関係の中で私たちが活動せざるをえないような場面があって、倫理というものはその上に乗っかっているだけのようなものだという信念があるような気がします。組織を考えると、実は組織のなかにある目標とか価値によって組織が動くっていうのはあるし、それに自ら人生そのものを投じるということもあります。だから善悪は必要ないっていうのではなく、何らかの形で善悪と別のところにある関係から、皮肉な形か積極的な形かで善悪というものが生じてくるのだと思っています。善悪というものがあるという立場からは距離を置いて考えたいです。

ほんま:今までご自身が働いてこられた延長線上に看護師さんたちの仕事があったんですね。自分の問題を、看護師さんを通して考えているんですか。

堀江:自分の問題かもしれません。学生とか若い時期にかけて、大学生のときに就職するか、大学院に進むかということとか、あるいは周りにいた左翼の活動家の友達とかと話していて、自分の活動が社会のなかで自分の選択としてどうできるんだろうかということを考えたときがありました。それ以来、自分は仕事をするけれど、仕事として割り切ってすると同時に、自分のやりたい趣味もする。そういう「切り分け」が仕事なのかって感じたのが最初なのかもしれません。それを誰もがやっているだろうということから、人は仕事ということで何を考え、他の人と関わりながら、他の人に合わせながら、他の人の命令に従いながら、何とか自分をやりくりしているというようなところを含めて、仕事と社会というものにずっと関心があったということです。

ほんま:最後にお二人に聞きたいのですが、お話しいただいたもののなかで、学生に伝授できるところがあるとしたら、何だと思いますか。

小西:まず、自分がそもそもなんでこんな問題を考えているんだろうっていう、自分のテーマと自分のつながりについては考えた方がいいと思います。当事者研究も含めて、研究全体のあらゆる当事者性と研究者自身が一致することはあり得ません。他者が単なる研究材料になりかねない危険と隣り合わせで、だからこそ、明記するかどうかは別にして、自分と他者たちとの関連性はしっかりと見なければならないと思います。もう一つは、何かを実行できる機会やチャンスというものは、いつでも存在するわけではないということです。今しかできないこともあるので、慎重さが求められると言ったことに対して逆説的なんですけれど、そういうときは、とにかく実行するということも重要だと思います。

ほんま:好きなだけ時間をかけれるわけではないということ、そして、たじろがないで現場に行くっていうことにすでに責任が伴うわけですね。それは人の生に関わるということなんだと思うんですけど、学問とか研究とかが人の生に関わるっていうのはどういうことなんだろうかってそこは私も考えたいところです。堀江さんはどうですか。

堀江:今の生に関わるというところでいえば、自分が考えたいなとか違和感があるなって思ったことは絶対手放すなということを学生には言いたいです。研究を続けようが、どこにいようが、自分がぜひこれははっきりさせたいなと思っていることは、20年30年手放さないで自分の生に関わりながらやっていくのが、臨床哲学を考えることになるのではないでしょうか。長い目での自分の生き方とか考えたいことを手放さないことが、臨床と哲学を結ぶ一番の肝だろうと感じます。

ほんま:堀江さんも小西さんもそうでしたけれど、自分自身が一回社会に出て、大学院で勉強しなおすみたいなルートがこれからますます大事になってくると思うんですよね。堀江さんのようなお仕事っていうのは、社会人院生にとって長期的に必要なことなんでしょうね。ライフワークというか、その人の生に関わりつつ、それを考え続けるという機会を臨床哲学は提供してくれるかもしれないということですね。

堀江:ぜひ提供したいですね。

付記

諸事情により、この対談のブログ掲載がたいへん遅れてしまいました。
臨床哲学教員による対談は、今回の掲載をもって、一旦終了とします。

MENU
arrow_upward