【報告】<ケア>を考える会
2019年9月8日(日)、第125回〈ケア〉を考える会に報告者として参加させていただきました。この会はいつも温かな雰囲気でとても居心地がいいです。また、対話の後には、(一部の方たちからはむしろこちらがメインと言われているような)懇親会が開催され、美味しい手作り料理や持ち寄りの日本酒が待っています。
〈ケア〉を考える会@京都は、2ヶ月に1回開催されるケア職の方たちが中心に集まる対話の場です。会の呼びかけをしてくださっているケアマネジャーの林道也さんは、臨床哲学とも長い間かかわってくださっている方です。以前、林さんは対話しているときや、何か本を読んだときにすぐに効果が発揮されるようなものではなくて、そこでなされた対話や言葉の意味が後々じわじわとしみてくるような、そういうものが好きだとおっしゃられたことがあり、私はそれに大変共感したことを覚えています。
今回は、私の単著『共依存の倫理』(晃洋書房)の第4章「共依存とフェミニズム」をもとに対話しました。本書は博士論文をもとにした学術書ですので、少し難解なところもあります。そこで対話に先立って、第4章の解説をさせていただき、対話にうつりました。
本章ではまず、「共依存」概念が、1990年代からラディカルフェミニストとフェミニスト心理学者たちにいかに批判されていたかを整理しました。特にフェミニスト心理学者たちは、共依存理論は分離を推奨する伝統的男性モデルからなるものであり、共依存者の回復の姿として自立や自己実現が掲げられること自体が女性にとって困難だとしてきします。ここに、問題あるとされる関係性を維持しながら、関係性を再構築するといった視点が見受けられます。
このように共依存概念は批判されてきましたが、その概念によって助けられた人たちもいます。さらに、共依存という現象そのものを見たとき、従来の共依存概念で語られてきた否定性に集約されないようなものが現れてきます。共依存者たちは、第三者から見たら救いようのない関係性のなかにかけがえのない肯定性を発見しているということがあるのです。確かに苦しい関係性だけれど、その関係性があるから、死にたいほどの苦しみを抱えながらも生きのびられたということもあります。さらに、暴力のような命にかかわる問題がある場合にでさえ、そこに生じる大切なものを必死に守ろうとしている人もいます。このような態度は、支援にとって弊害になることが多々あります。しかし、このような声がないがしろにされてしまうと、共依存者のなかには、助けを求めながらも、支援の現場を去ってしまう人が現れてきます。ここには求めていた救済はないのだと思ってしまうのです。
このような話を実際にケア職・支援者の方々と対話できるのは大変貴重な機会でした。支援者は当事者の命を守らなければなりません。支援者の方は、虐待や暴力というものは支援現場のなかでも強烈なもので、そのケースが「虐待」「暴力」だとラベリングされた途端、分離しなければならないという結論に直結してしまう現状があるのではないかと話されました。また、現場の方々のなかには、すでに分離によって支援が失敗してしまったケースをいくつも経験されてきたという方がいらっしゃいました。さらに、個人としては現場で違和感を持っていて、その現場とは異なるあり方を追求したくても、それを一人でやってしまうと孤立する(実際に孤立した)という訴えもありました。そういったなかで、このような現状が周知されることや、「虐待・暴力→分離」ではない幅のある支援が目指されるべきではないかという問いかけもありました。
さらに、(元)当事者の方は「共依存」という言葉には、責められたような想いをしたと語られました。しかし、関わった支援者の方が「それでもいいんだよ。でも、自分の命は守ってね。もしもの時はいつでも来てね。」と言ってくださったそうです。この言葉は、直ちに共依存関係を解消することを求めるものではなかったため、そこでの助言はのちの行動につながることになったと言われました。ここに幅のある支援というものがあるのではないかと語られました。
ご両親が共依存的な関係を築かれていたと語られた方もいました。その方は依存症者の父親を憎んでいて、飲酒が原因で父親が亡くなったとき、泣いている母親を見てその気持ちが全く理解できなかったそうです。しかし、何か辛い出来事があり、その辛さを依存症が助けてくれているという部分を読み、救われた、父を赦せるような気がした(同時に自分も赦せる)とおっしゃって下さいました。
他にも共依存を肯定的に見る視点を提示している人は他にもいるのかという質問がありました。数名いらっしゃいますが、そのほぼすべてが日本人によって提示されたものであることは、大変興味深いと思っています。共依存概念はアメリカから輸入された概念です。アメリカで生まれた概念が日本に輸入され異なる文化に触れることで、別の言説が生成されます。時にそれはアメリカの研究者によって、日本が共依存的な文化にあるからそのような視点が生まれるのだと批判されますが、それは西洋的な視点であると以前論じたことがあります。そういう文脈とは異なる意味で、日本独特の視点から見えてくるものもあるのではないでしょうか。
さまざまな立場の方からのお話を聞いたり、問いかけられたりすることで、私自身新しい気づきもありましたし、自分の考えも整理されました。『共依存の倫理』はあと2回報告させていただきますが、そのあとは別の報告者の方の話を聴いてみたいです。
(文責:小西 真理子)